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ART SQUAREは三浦明範の作品と絵画技法・材料のサイトです。

■ネーデルランドの光と影

 その年の冬、ヨーロッパ中が数十年ぶりという大寒波に見舞われた。
 池や運河は分厚い氷で覆われ、連日の強風で温度計は-15℃を指していたが体感では5度以上は低く感じられた。あまりの寒さで家に閉じこもっていたが、暖房を最高にしても温まらず、朝起きると小さな窓には氷が分厚く張り付いていた。
 10年前、私はアントワープの古い教会の前に建つ、住宅街の通りに面した一軒の家にいた。そこは築百数十年の古いレンガ造りの家で、屋根裏部屋を改装した部屋を間借りしていたのだ。周りは同じような古い建物が並び、古き良きヨーロッパの情緒漂う街並みであった。
 部屋は天井が高く、イーゼルを立ててもまだまだ余裕があり、日本でアトリエの確保で苦労していることを考えると夢のようだった。また、部屋の窓は小さな格子窓で、フェルメールの絵に出てくる室内風景を思わせた。
 しかし、古いヨーロッパの雰囲気を楽しんだのは最初の数週間で、いざ部屋で絵を描こうとすると暗過ぎた。照明らしいものはフロア・スタンドくらいしかなく、この小さな窓から差し込む光だけでは、明るい室内に慣れた私には物足りないのだった。
 そこで蛍光灯を手に入れようと、あちこちの照明器具店や電器屋さんを回ったが、どこにも売っていない。オレンジ色の白熱灯やハロゲンはいくらでもあるのだが、蛍光灯がないのだ。最終的に工場や店舗で使う、業務用の物を天井に直付けしてもらい、ようやく満足できる明るさを得たのだった。

ヤン・ファン・エイク 聖バーフ大聖堂(ヘント・ベルギー)祭壇画 閉翼時中段「受胎告知」

 後で知ったことだが、蛍光灯の白い光や明る過ぎるのが好まれないためであった。今でも蝋燭の灯でディナーを楽しむのは、この明るさがちょうど良いからなのだろう。
 ネーデルランド地方は現在のベルギーとオランダを中心とした低地帯を言うが、日本で言えば樺太くらいの緯度にある。この年の冬の寒さは特別だったにせよ、朝は9時過ぎまで暗く、夕方は4時になると日が暮れる。日中もこの地方特有のどんよりとした分厚い雲に覆われ、晴れたと思ってもすぐに陽は遮られてしまう。本当に気が滅入ってしまいそうな暗くて長い冬だ。
 ところで、アントワープがあるベルギーの北部はフランドルと呼ばれているが、このフランドルから油彩画は発祥した。15世紀のブリュージュで活躍したヤンとフーベルトのファン・アイク兄弟が完成したと言われている。
 この油彩画は瞬く間にヨーロッパ中に広がるが、彼らが求めたのは「写真」のような現実の再現であり、その表現には完璧に適した素材だったからだ
 現にカメラ・オブスキュラという、今日のカメラの基となった、針穴写真機のようなものを使って描いている挿絵が残っている。フェルメールがこの装置を使っていたという説もあり、「真珠の耳飾りの少女」という映画でも、フェルメールが少女にこの装置を覗かせる場面があった。
 このカメラは眼の仕組みを模したものであり、その構造は水晶体から入った光を網膜にある光受容細胞で感知する。その光受容細胞には二種類あり、そのひとつは錐体細胞という、明るい所で赤、青、緑に反応する細胞であるのに対し、もうひとつは桿体細胞という、暗い所で明暗を感知する細胞である。いわばモノクロームの細胞だ。犬が色盲と言われるのは、もともと夜行性であるためこの桿体細胞が多いからである。
 イタリア・ルネッサンスが色彩の表現とすれば、北方ルネッサンスは光と影の表現と言われているが、実はこの細胞の働きによるのではないかと密かに考えている。すなわち、緯度が低いイタリアでは日照時間が長いため明るく、色彩を感じる錐体細胞が働く。それに対し、北方では日照時間は短く暗いため、明暗で感じる桿体細胞の方が強く働くのだ。
 「モノ」の本質を問う時、陰影は時間と共に移ろうものであるから本質ではないという考え方がある。この場合の本質は「固有の色彩」として捉えることができるだろう。これが、私たち日本人の先達が描いてきた絵画の世界である。
 緯度の近いイタリアでもこれに近い考え方で、ファン・アイクと同時代のフラ・アンジェリコでは、陰影は立体としての丸みを出すための手段であり、本質はむしろ色彩にあるように見える。
 一方で、本質をモノの「存在」として捉える見方もある。この場合は、「色彩」はむしろ従属的、装飾的なものとして考えられる。この考え方では「そこに在る」ことが重要で、そのためには物質としての存在感と共に、今在ることの状態、すなわち光と影の「明暗」が最も重要なものとなる。
 換言すれば、前者は錐体細胞的、後者は桿体細胞的な捉え方ということになるだろう。
 ファン・アイクの代表作、「神秘の子羊」の閉じた時の受胎告知の室内や聖人の像は、もともと置かれていた廟の窓から差す光と同じ方向からの光源を設定し、あたかもそこに「在る」かのように感じられるように描かれている。

 ヨハネス・ヘルメール
牛乳を注ぐ女(1658-59頃)

 下って17世紀のフェルメールの室内では、窓から差し込むわずかばかりの光を頼りに描かれているが、それらは永久にそのまま静止しているかのようで、モノはありきたりの質を超え、「存在」そのものを表しているかのように見える。例えば「ミルクを注ぐ女」では、メイドは人でありながら石像のようにいつまでも存在しているし、ミルクは液体でありながら固体のようにそのままそこに存在し続けている。
 また、レンブラントの特徴である、白をたっぷり使った上からグレーズしている表現では、絵具の物質感がモノの存在感そのものに変容している。
 すなわち、ネーデルランド地方の少ない太陽光が「存在とは何か」という命題に向かわせたのではないだろうか、私はそう確信している。
 この地の絵画はイタリア絵画と融合し、ヨーロッパ絵画の全盛を迎えるが、ネーデルランドという風土がヨーロッパ絵画に与えた影響は計り知れなく、油彩画の技術そのものを作っただけでなく、ヨーロッパ絵画の根底にある存在に対する見方を作ったとも言えるのである。(2012年雑誌掲載)

■表現そのものに関わる画材

 先日、映画の試写会に招待されて、久々の映画鑑賞に出かけた。
 この映画は、文藝賞を受賞した作品を映画化したもので、美術学校を舞台にしていることから、私が勤務している学校が構内での撮影に協力したのである。内容はもちろんであるが、エキストラとして出演していた学生の様子や、教室や工房の映り具合に興味があって、のこのこと試写会場に出かけた次第である。
 開演を知らせるアナウンスで場内が静まり、続いて進行役の女性が、サプライズとして舞台あいさつがあることを発表した。その瞬間、場内は悲鳴に似た声に沸きかえった。女性に人気の若い主演男優が紹介されたからだ。監督と共に主演の男、女優が現れると、場内の興奮は最高潮に達した。
 スクリーン上の俳優を見に来た人が、幸運にも生身の当人に出会うことができたのだから興奮するのは当然だ。写真や映像の中だけの存在であった俳優が目の前にいるということは、たとえ話したり触れたりすることはなくても、ファンならなおさら感動的な出来事であろう。
 映画の内容を批評する気はもとより無いが、目を凝らさなければ判別できないエキストラの学生や、いつもと違う表情をしている構内の様子を面白おかしく感じながらも、一番興味を持ってしまったのはこの舞台あいさつの光景だったのだ。

 ヤン・ファン・エイク 「アルノルフィニ夫妻の婚礼」 板に油彩
エイクは油彩画の完成者とされている。奥行きと質感の表現に優れ、写真のような現実の再現に適した画材として、生まれるべくして生まれた。

 ところで今日、私たちは沢山の雑誌や画集などで絵を見ることができるし、テレビ番組やビデオで世界中の美術館を居ながらにして楽しむことが出来る。
 しかし、それで満足しているかと思えば、有名な作品の並ぶ展覧会では、入場するまで1時間以上かかるという長蛇の列もざらにある。さらに、美術館巡りの海外旅行は人気があり、昔に比べてだいぶお手ごろ価格になったとはいえ、少なからぬお金をかけて本物を見るために、ルーブルやウフィッツィなどに出かけている。
 これは、試写会での出来事と似ている。好きな俳優が出演している映画や雑誌を沢山見ていても、知れば知るほど生身の本人に会いたいと思う。同様に、図版などで細部まで知り尽くしていても、本物の絵を見たいと思うのだ。
 もし絵が、何が描かれているかという平面上のイメージだけならば、画集やテレビ映像で十分満足できる。しかし、絵は触れようと思えば触れることのできる、いわば立体物であるからこそ、本物に出会いたいと思ってしまうのだ。
 つまり、絵は平面ではなく「物体」であるということになる。
 このことは描く立場でも同じである。私たちが絵を描く上で、「何を表わすか」というテーマやモチーフの問題が一番大事であることは言うまでもない。しかし、表したい形や色が描ければ良いというだけなら、パソコンでもできる。否、今日のCG技術なら形や色のみならず、立体感や質感さえ的確に表すことができるだろう。
 しかし、パソコンのモニターやプリントアウトしたものでは、先のビデオや画集と同じことになってしまう。結局、絵を描くということは、キャンバスと油絵具のように、支持体と絵具を使って何らかの「物体」を作ることでしかないのだ。

 ジョット 「聖聖ステパノ」
1320-1325年、板にテンペラ、84×54cm、ホーン博物館、フィレンツェ

 この絵具の代表とでも言える油絵具は、15世紀のフランドル(現在のベルギー)で生まれた。それまでのヨーロッパでは卵テンペラがもっとも多く使われた絵具であったが、ブルージュのヤン・ファン・エイクは全面的に油を採用して描いたのである。
 その後、瞬く間にヨーロッパ全土にこの油彩画の技術は広まり、テンペラはその後何世紀も省みられることはなくなる。
 その理由は、テンペラでは難しかった明暗の滑らかな移行が、油絵具では容易に出来たこと、塗った直後と乾燥後での色彩の変化が少ないことなどが挙げられる。しかしもっとも重大な原因は、テンペラは乾くと水分が蒸発し、顔料がほぼむき出し状態になるが、油絵具では油は蒸発しないため、顔料は油で覆われたままであることにあった。
 テンペラの時代の絵の描き方は、空から始めて、山、建物、人物のように、奥から順に描いていた。これは上に乗せた絵具が常に手前に見えてしまうからである。つまり、テンペラでは重ねた顔料は手前に在ることになるのだ。
 それに対し油絵具では、油が顔料を覆うために、顔料は奥に在ることになる。つまり、顔料が「奥行き」を持つことになるのだ。実際、絵具を重ねて塗ると分かるが、薄く重ねた絵具はそこだけが下がったように(奥に)見えてしまう。
 このように、現実の再現としての「奥行き」を表すためには、油絵具は絶対に必要な物だったのである。
 その後、時の流れと共に幾多の変遷を経て、油彩画は印象派に代表されるような、絵具を直接画面にぶつけるような表現に変わり、それまでの「奥行き」は放棄された。絵は写真のような再現ではなく、画家にとって自然をどう捉えるかということが最も重大な関心事になったのだ。
また、ピカソらのキュビズムの画家たちは「パピエ・コレ」と呼ばれている、画面に紙を貼り付ける表現をした。これは、紙がその物体としての存在を現実のものとしていることで、絵具も物体としての材質感が対比させられたのだ。
 絵画用語に「マチエール」(仏Matière)という言葉があるが、これは英語のマテリアル(Material)と同じ言葉で、物質や物体、材質や材料という意味である。つまり、本来「油彩画のマチエール」とは油絵具そのもののことを指している。

パブロ・ピカソ 「ギター」 1913 木炭、鉛筆、インク、貼られた紙
パピエ・コレと名付けられた作例

 しかしキュビズム以降、絵具の役割がイリュージョンとしての表現にとどまらず、絵具自体の物質感にも意味があるという考え方が出現したことで、この言葉の意味することは二重性を持つことになった。
 例えば描かれたリンゴの場合、絵具は、あくまでマチエール(材料)であるためその材質感を消してリンゴという質に変容しなければならないと共に、そのマチエール(材質感)の魅力を発揮させなければならないことにもなるのだ。
 今日では、「マチエール」と言えば絵具のことを指すことは稀で、画面の絵肌や材質感のことを表すことが多い。これからわかるように、現代の絵画では絵具としての材質感が重視され、本来の油絵具が求めた「奥行き」やマチエールが他の質に変わるという考え方は、少数派になってしまった感もある。

 さて今日、油絵を描こうとすると、まず画材店に行って、キャンバスと油絵具を買ってくるだろう。そうすればその日のうちに、描きたいものをある程度は描けてしまう。このことは間違いなく素晴らしいことである。昔日の画家たちは、自分でキャンバスを作り、絵具を練って、描くまでが大変な作業だったはずである。
 しかし、この市販されている油絵具は、市場原理から、最も利益が出るものでしかない。すなわち、個々の表現より、最も多く求められている表現に合うようなものになっているのだ。それは先に述べた様に、絵具としての材質感を出しやすくしたもので、例えばゴッホのような、筆致を残してたっぷりと盛り上げた表現に適したものなのである。
 このことは、別の表現を求めている者に対しては、必ずしも適したものではないということにもなる。具体的には、印象派以降否定されてしまった本来の意味での「奥行き」を求めようとする時、この市販の絵具では十分に表現できるとは言えないのである。
 便利さを追求した結果、少数派は切り捨てられているのが今の油絵具なのだ。「芸術は個性だ」と言いながら、個という少数派が捨てられるという矛盾が起こっているのだ。
 油絵具以外にも、歴史上で絵画材料として使われてきたものにはさまざまなものがある。例えば、絵具のバインダー(接着成分)に使われたものには、小麦粉、卵、樹脂、膠、蜜蝋、漆喰など、描かれた支持体は壁、パピルス、板、皮革、ガラス、金属、紙、布など。さらに現代では、アクリル樹脂やアルキド樹脂などの新しい絵具が登場し、合板や、合繊やガラス繊維などの新しい素材も続々と開発されている。
 このような素材はかつてないほど容易に入手できるし、画材用ではないものでも少し手を加えれば、簡単に画材として使用できる。このような状況下で、画材メーカーに与えられたものだけで絵を描いているのは、むしろ不自然なのではないだろうか。
 もちろん、画材の種類も豊富になっているため、選択の幅も広がっている。その意味で市販品を否定するものではないし、簡単に描けることは素晴らしいことに間違いない。要は、表現に合う材料を使えばいいことであって、画材に表現を合わせることではない、ということだ。
 支持体をキャンバスにするのか、板や紙にするのか、絵具は油絵具で良いのか、アクリルが良いのか、テンペラの方が良いのか、はたまた日本画の岩絵具にすべきなのか。夫々の素材が物体としての表情(マチエール)を表し、それが存在そのものとして直接働きかけて来る。つまり、絵を描くことも見ることも、この素材と対話することでもあるのだ。
 画材にこだわるということは、単にブランドの好みや使いやすさというだけではなく、表現そのものに関わる重大な問題なのである。(2008年雑誌掲載)

■家族の肖像

 「家族の肖像」というと、ルキノ・ヴィスコンティの映画を思い出すのは私だけではないだろう。バート・ランカスター扮する孤独な教授のもとに、奇妙な一群が移り住み、不思議な集合体を形成していく中で、「家族とは」を問う内容であったと思う。

 映画のみならず、文学や絵画でも家族をモチーフにした作品は、これまで少なからずあったと思う。しかし、それらのテーマについて言えば、単純に家族愛を賛美したものはおそらく皆無であろう。
 作品が見る者に感銘を与えるのは、それまでの概念に無い思想や捉え方がある時である。それが問題を提起し、深く考えさせられるからである。ヴィスコンティばかりでなく、他の映像や文学などの作品でも、特殊な状況の中でその存在や定義を問うものばかりではないだろうか。

 例えば、友人宅で子供の運動会のビデオを見せられることくらい、苦痛なことは無い。親や祖父母にとっては1等賞を取ろうが途中で転んでしまおうが、無上の喜びかもしれないが、赤の他人にとっては、何の感慨も無いのである。
 同様に、他人の家族のほのぼのとした肖像画を見ても、われわれは何も感動しない。画家が描かなくてはならないのは、むしろ、そのような家族のあり方を問う見方なのではないだろうか。

 その意味で、画家が家族をモチーフとするのは、おそらく以下の目的によるものであろう。
 その第1は、上記のような、家族そのものをテーマとして問うため。
 その第2は、画家の分身として家族を捉えること。この場合、家族の肖像は、いわば自画像の別バージョンであると言えるだろう。
 そして最後に、単に人体モデルとして身近にいる家族を使うということ。これはテーマが別にあり、モデルは家族でなくても他の誰でも良いことになる。

 ところで、私の絵をジャンル分けするとすれば、静物画であったり人物画であったりするかもしれないが、私の中では同じものを描いているつもりなのである。それは「モノ」でしかない。ヒトも、リンゴや花瓶と同じモノなのである。
 私にとって重要なことは、モノが在る事であって、生(いのち)有るものと無いものの違いは無いのである。
 従って、私のモチーフが「家族」だと言われても、私にはピンと来ない。確かに、人物は妻や子をモデルに描いてはいるが、実は誰でも良いのだ。現に、プロのモデルを使った作品もある。その意味では上記の最後の目的に該当し、家族というものが特別な意味を持っているとは言い難いのである。 (2004年雑誌掲載)

■団子考

団子―穀物の粉をこねてまるめ、蒸したり、ゆでたりした食品。これが、この頃妙に気になっている。
 近年、月を絵のモチーフのひとつにしている。ここで意図は詳しくは述べられないが、そのことと、なぜかとても重要な開係があるような気がしてならないのだ。もちろん、単純に月見に団子というのではない。

 事の始まりは、昨春、父が亡くなった時のことだった。実に不謹慎なことではあるが、葬儀の際、思わず吹き出してしまいそうになった事件が起きた。
 喪主側の葬式としては幼少のころは別として、初めてのことになる。しかも田舎のこと、まだ「家」意識の色濃く残る儀式だ。万一粗相でもあろうものなら一大事とばかりに、親族一同より色々とアドバイスを授けてもらいながら事を進めていた。
 そんな中で、供物のひとつが親族のひとりの目にとまったのだ。それが団子である。
 斎場から戻った供物にそれがなかったのである。その親族によれば、祭壇には常に団子がなくてはならない、というのだ。
 それからが大変で、深夜の事だったので材料は手に入るすべもない。喧々諾々の末、一切は葬儀社に任せるということで、その場は納まった。
 団子ひとつがこれほど重要なものかと、その時はおかしさを堪えていたのだが、いまごろになって振り返ってみると、実に感慨深い事件だったのだ。

 すなわち、葬儀というものは荘厳さを求めるため、何代も、何十代もの間しきたりを重んじてきたはずである。おそらく今日残っているものの中で、最も古い形を残しているものではないかということである。
 もちろん、歴史のなかで、宗教の変遷という事実はある。しかし、例えば仏教に関して言えば葬式宗教と悪口を言われるように、一般庶民にとっては死後の世界観の変遷というだけで、しきたり自体は古代から一貫したものを、我々は項固なまでに継続してきたのではないのだろうか。
 そのひとつが団子のような気がするのだ。
 食文化には疎いのだが、この団子というのは、かつての主食であり、また旅立つ者の携常食だったのではないだろうか。桃太郎が黍団子を持って旅立ったように。
 そして、月見団子に花見団子。いずれも欠けたり散ったりする、いわば死にゆく間際の、一瞬の美しさを愛で、捧げる食事なのだ。
 これはもう間違いなく、団子と日本人の死生観はなんらかの関係がありそうだ。そこまでは何となくつかめたのだが。

 このところ、青森の縄文遺蹟から巨大建築跡が発掘されるなど、これまでの常識を覆す縄文時代への興味がマスコミを賑わせている。
 そんな折、五千年も前の縄文人の食事を記したものに出会った。そこには主食としてこうあった。「どんぐりの団子」と。(1995年雑誌掲載)


■飛ばない鳥

 我が家の主は犬です。前任者は、ネコが2代務めていました。
 初代は「長谷川留八」というネコでした。このトメさんが3歳ぐらいの頃、近所のペットショップに、体中ただれて瀕死のネコがいたのです。あまりに哀れで、譲り受けて飼うことにしました。その鳴き声が「ウメー、ウメー」と聞こえるので、「佐々木梅」という名前にしました。
 ウメさんの方は、せっせと病院に通って何とか持ち直しましたが、今度はトメさんの方が尿道結石になり、二度の手術の甲斐なくあっという間に亡くなってしまいました。一緒にいたのは、2ヶ月にも満ちませんでした。
 ウメさんは、その後、腫瘍の摘出手術をしたりしましたが、なんと17年もの長生きをして、2代目としての天寿を全うしました。
 現在の3代目「富一」は、ウメさんが亡くなる前年に来たのですが、こうして考えると不思議なことに、新しい家族が増えると間もなく、それまでの主が死んでしまうのです。
 2代目はその任期が長かったため、私の絵にたびたび現れています。ネコの飼主に媚びない性格が、絵の中でヒトの意思とは異なる何かを表すのには、なかなか良いモチーフであったのです。
 それと同様な効果を狙ったのは、カラスです。カラスは、不吉の象徴として見られがちですが、都市生活の中で逞しく野生を維持している数少ない動物なのです。当時のテーマは、自然を排した無機的な都会の生活を描くことで、自然回帰の逆説を狙ったものでした。カラスはその中で、唯一自然を表す、絶好のモチーフでもあった訳です。

 その後、テーマそのものは変遷してきていますが、いまだにカラスはたびたび登場してきます。しかしそれは、もう飛ぶことのない姿に変わってしまいました。
 なぜ描いているのかは、うまく説明できません。しかし、分からないからこそ描いているといっても良いかもしれません。つまり、ヒトは言葉で思索していますが、絵を描くということは、描く行為そのものが思索なのではないかと思うのです。言葉にすることができた時、それを絵に表すのは、説明のためのイラストレーションでしかなくなります。
 それでも、少しずつ分かりかけてきています。たとえば、鳥が横たわるのは生を終えた時しかないこと。また、古くは、死者の魂を運ぶものが鳥である、と信じられてきたことが関係あるのかもしれません。あるいは、単純に黒という色彩に魅せられているのかもしれませんし、西洋の静物画によく登場する、猟の獲物を描いた生々しい「食物」の山に対する反動のようなものかもしれません。
 いずれにしても、3代目の発見してくれた鳥たちの亡骸が、我がアトリエの冷蔵庫に安置されている間は、まだしばらく描き続けることと思います。

 ところで、この飛ばない鳥を描き始めたきっかけは、2年程前に遡ります。
私はその時、1年間のヨーロッパでの研修生活をしていました。その目的は、15世紀フランドル絵画の研究でしたが、同時に、ある微かな期待を胸に秘めていたのです。それは、日本を外から見ることで、改めて日本人としてのアイデンテティを見つけることができるのではということです。
 しかし、実際は多民族、多言語の中で、私は異物ではなく、単にヒトとしての個でしかありませんでした。数々の国々から集まった人々が、私の隣人として接する間に、「日本人とは」という問題は霧消してしまったのです。
 そんな失望の中で最初の数ヶ月は、帰国後すぐに予定されていた個展の準備のため、こつこつと制作していました。しかし2、3ヶ月も過ぎた頃、ふと、これでは日本にいても同じ生活では、と思ったのです。
 それからは、篭って絵を描いている場合ではないと、あちこち旅行をしたり、図書館で調べ物をしたりしたのです。
 絵を描き始めて二十数年、どこかに義務感のようなものを感じて描いていました。絵を描くことが、生活そのものになってしまっていたので、描かない不安がいっそう駆り立てていたのかもしれません。絵筆を置いて、絵を描かない生活がこんなにも楽なものか、と改めて感じたものです。

 そんな不埒な生活をしていて、研修生活も半分を過ぎた頃です。郊外を散歩していた時、道に1羽の小鳥が落ちていました。その時はなんとも思わなかったのですが、なんとなく気になって、拾って冷凍庫に保存しておいたのです。
 しばらくして、無性に絵を描きたくなりました。
 こんな気持ちは、ここ何年も感じたことのない感覚です。小鳥がそうさせたのか、溜まっていたエネルギーが噴出したのかはわかりません。冷凍庫から小鳥を出して、数ヶ月ぶりで描き始めました。この時の感動は、どう言い表してよいのかわかりませんが、たとえば、初めて油絵具でキャンヴァスに書いた時のような、実に新鮮なものでした。
 その絵は客観的にはそれほどの出来ではなかったでしょうが、私にとっては第二の出発点とでも言う、記念すべき作品になりました。
 あの時の感動が忘れられなく、「描きたい」という欲求が湧き上がるのを求めているのですが、猛スピードで流れる日常生活の中では、なかなか思うようにはなりません。しかし、あの感覚こそ、もっとも大事な創作のエネルギーであると、今でも信じています。(1999年12月雑誌掲載)

  


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