「そんなのは当たり前、後ろもパースペクティヴの原理が働いているからだ」とおっしゃる貴兄諸氏。百歩譲って、それが正しいとして、では前・後の二点から広がってきた接点はどうなっているのだろうか。直線で結べば、どこかに角ができてしまうではないか。
いったいぜんたい、これはどういうわけだろう!?
さらにもうひとつ、図1、2をごらんあれ。いわゆる、一点透視図法で描かれた床のタイルと思っていただきたい。
ここでは画家はタイルの右側、やや上方から下を見下ろしている位置にいる。当然右より左側の方が、遠くにあることになる。
遠くにあるものは小さく見えるという原理からすると、辺Aより、Bの方が短くなるはずである・・・が、どうだろう。まったく逆、長くなってしまうではないか。
さらにもっと左側にあるタイルは、遠くへ行けば行くほどどんどん長くなってしまうことが判るだろう。これに至っては、もともとの寸法である下辺の長さより、側辺の長さが長くなってしまう。これではどう見ても正方形には見えない。
と、言うことは、600年近く画家たちが信じ込んできた遠近法が、実は間違いだったというとになってしまう!!!
実は、これらは、道路やタイルの辺が直線であるという前提に立っていることから生じる誤りなのだ。もし、これを放棄すれば、問題は解決する。
たとえば、こう考えてみよう。前方の一点から広がってきたハイウェイは、道の真ん中に立つ私の脇を中心に緩やかな放物線を描いて、再び後方に縮んでいくのだ。これなら、前後から広がってくる平行線同士は、角を持つことなく滑らかに接続できる。また同様に、タイルも定規を使わずに描けば、遠くの辺の長さを短くできる。「そんなことはありえない」と言うなら、実際に廊下や広い室内の中央壁際に立って、対面の壁を見てみたまえ。正面の壁は最も近いため、天井までの高さは最も高いが、左右に遠ざかるに従い、だんだん低くなって見える。と言うことは、天井の高さは曲線を描いていることになるだろう。
しかし、われわれの眼には、どう見ても天井や道路は真っ直ぐに伸びる直線にしか見えないし、タイルだって平行四辺形にしか見えない。ましてや、「アテネの学堂」の空間がパースペクティヴで描かれているからといって、間違っているようには絶対に見えない。
ここでまた、「どうして!」と叫んでしまうだろう。
これらを解決する前に、問題のラファエルロの名作を見てみよう。
この画面右下でコンパスを握っているのはユークリッド。幾何学で有名であるが、実際は何か画期的なことを発見したわけではないらしい。古代ギリシアの幾何学を総合的にまとめたので、以来「ユークリッド幾何学」いうのだそうな。
難しいことは置いておいて、古代ギリシアで発達したこの学問は、その後1000年も停滞してしまう。
そこで何とか解決しようという試みがなされた結果、奇妙な空間が生まれてしまった。それらを非ユークリッド空間と言うが、そのひとつが以下のようなもの。
例えば、真東にある都市に旅行をしようとする。地図や地球儀の上で東に向かって真直ぐ(経線に沿って)線を引くと最短距離になるはずだが、実際は飛行機の航路図でわかるように、
弧を描いて進むのが最短ルートなのである。すなわち、真東に向かって歩いたのでは、遠回りになってしまうのだ。
この空間を「楕円空間」と言うが、これは磁力の単位やガウス曲線の名で知られる、カール・フリードリッヒ・ガウスが考案したもので、いわば歪んだ空間なのである。
この楕円空間の世界ではすべての平行線は交差してしまうし、三角形の内角の和は180度より大きくなってしまう。
原因はローマの現実的(戦術的)思考法と、キリスト教の聖書にある記述が自然科学を排除しなければ成り立たないということによる。
ようやくルネッサンスを待って、「ギリシアに見習え」という時代がやってきたわけだ。そして、この作品はその精神の表現とでも言える記念碑となった。
ところで、このユークリッドの著した「原論」の中の「平行線公理」と呼ばれている第5公準はその後、詳しくは論じられないが、どうもおかしいという事になった。(注1)
その他にもいろいろな空間が考え出されるが、わが敬愛するDr.アインシュタインに至って、「相対性理論」なるものが考え出された。
この理論では、今では小学生でも知っているが、空間の歪みはもちろん、時間さえ歪んでいるということになる。
更に最新の理論では、九次元、十次元の時空という「超ひも理論」まで登場している。それらは、次元のねじれからすべての力を説明するために生まれてきたもので、換言すれば、この世界は歪みだらけであるということなのだ。
話はだいぶそれてしまったが、先の遠近法に戻ろう。
実は、ハイウェイもタイルも、この歪んだ空間ということを用いると説明できるのだ。
タイルのそれぞれの頂点からの最短距離が辺を形成しているわけだから、それらはすべて弧を描いていることになる。ハイウエイはこのタイルの平行線の延長と考えて良いので、やはり曲線でできていることになるのだ。
まさに先ほどの矛盾点がこれで解決できるだろう。
ここで反論する諸君もいるであろう。
「それは地球規模の話で、見える範囲ではそんなことは起こらない!」と。
いやいや、そうではないのだ。われわれの世界(見えている世界)というのは、実は眼球の網膜に投影されている世界でしかなくその網膜は球体である・・・
つまり楕円空間であって、いわば地球の縮小版と言えるのだ。したがって、われわれの世界はパースペクティヴ(ユークリッド空間)などでは表現できないのである。
それでも納得できない諸君には、次のような経験はないだろうか。
たとえば小高い丘から海を見下ろし、水平線が弧を描いているのを見て、地球が丸いことを実感したことを。
しかしよく考えると、弧を描いている水平線の延長は下方に向かっている。もし、360度海に囲まれていたなら、後ろを振り返っても、何事もなかったように、また同じ高さのまま、なだらかな弧を描いているであろう。
実際の水平線は平らなまま、ぐるりと一直線で結ばれている。しかし、我々の網膜上に投影される水平線は、楕円空間上にあるため、弧を描いていることになる。それが、あたかも地球の丸さが見えたように錯覚しただけなのだ。
かくして、ルネッサンス時代に考え出された遠近法は、アテネの学堂とともに音を立てて崩れ去るのだった・・・(注2)
(注2)実は、この時代にすでにこの矛盾は知られており、視野の角度を60度程度に制限した使い方をしていた。この範囲内では、矛盾をあまり感じることなく表現できる。これはカメラのズームレンズで撮影する時、ワイドで撮ると端にいる人が歪んで写るが、望遠側では歪みが感じられないことと同じ原理である。
しかし、まだ問題が残っている。崩れ去ったはずの「アテネの学堂」が、未だに違和感なく見えるし、ハイウェイもタイルも、どう見ても歪んで見えないということだ。
これはどう解釈すればよいのだろう。
これを説明するためには、われわれの眼と脳の仕組みを知らなければならないが、その前にもうひとつ実験をしてみよう。
もう一度、廊下や室内の壁を見てみたまえ。
天井の高さが左右に遠ざかるに従い、低くなることは確認できたであろうが、垂直線である、柱や窓の枠は上方に狭くなって見えるだろうか。
遠くのものは小さくなるという原理から言えば、柱は上方のある一点に向かって収束していくはずだが、おそらくそのようには見えなく、どの柱も平行に見えるはずである。ましてや曲線には絶対見えない。当然、ラファエルロにもそう見えたはずで、柱はすべて垂直線で描いる。
その原因のひとつは、われわれの眼が横に二つ並んでいることによる。
この二つの眼の視差から、われわれが奥行きを感じ取っていることは周知であろう。そして、この眼からの情報が脳へ伝達される仕組みは、直線的に右眼からは左脳へ、左眼からは右脳へと分かれるのではなく、両眼からの「右側」の情報は左脳に、「左側」の情報は右脳に伝わる。つまり、すべてのものを「右側」と「左側」に分けて処理していることになるのである。
例えば、やむをえない病気で左脳の視覚野を摘出してしまった患者は、視界の右側が見えなくなるのではなく、すべてのモノの「右側」が認識できなくなるのだ。具体的には、目の前にいる人の、顔の右半分だけが見えなくなるだけで、その後ろの風景が見えなくなるわけではない。鏡の世界が、左右が逆に見え、上下がそのままなのも、このためである。
その結果、前後の奥行きと、左右方向の微細な違いには敏感に反応できるが、上下方向の変化には鈍感になってしまう。つまり、水平方向に広がる壁の高さの変化は認識できるが、垂直方向に伸びる柱に対しては、その変化を感じることが出来ないのだ。
ためしに頭を横にして柱を見たまえ。今度は柱のパースが感じられるだろう。
しかし、たとえどんなに鈍感であれ、実際には間隔が狭くなっているはずの柱が、どうして完全な平行線にしか見えないかというと、その原因は、脳の仕組みに関わってくる。
カメラはわれわれの眼の仕組みを模した物であるが、われわれの脳にはフイルムに相当するものがあるわけではない。
眼からの情報は、まず第一次視覚皮質と呼ばれる後頭部にある部位に伝わり、ビジョンとしてのイメージが形成される。そして次に、視覚連合野と呼ばれる、脳のさまざまな部位で処理された情報を統合する部位に到達する。
この視覚連合野では、他の部位から来た情報が関係付けられ、ようやく「何を」「いかに」という認識が行われるのだ。
このことは、眼から入ってきた情報が、単純に映像として認識されているのではなく、経験や知識によっていかようにも変化してしまうということを示している。
例えば、近眼の人の度が進み、メガネを新調して初めてかけた時、家の階段が歪んで見えるそうだ。ところが数日も経つと、まったく歪みが取れてしまう。もっと過激な実験では、いつかテレビで放映していたが、上下が逆に見えるメガネをかけさせて生活させるというのがあった。もちろんはじめは手探りで歩いていたが、それでも一週間も経つと普通に生活できてしまったのだ。
また、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ということがある。幽霊と信じている人にとっては「幽霊」以外の何者でもないが、それを信じていない人にとっては、「枯れ尾花」でしかない。また、「幻覚」ということもる。眼からの情報が無いのにもかかわらず、見ているという認識をしてしまうことだ。
これらは少し極端な例だが、何も特別な人にのみ起こる事ではなく、多かれ少なかれ万人に起こる、通常の脳の働きなのだ。すなわち、我々がいわゆる「見る」ということは、眼はもちろん、経験や記憶、さらには感情や他の感覚も働かせ、視覚として感じた事を「見た」事として判断しているのである。
このようにして、垂直方向に対して鈍感な我々の脳は、真っ先に、狭まる柱を平行線として修正してしまう。そして次に、曲線として入ってきたハイウェイやタイルの情報を「直線に違いない」と判断し、修正して認識しただけなのだ。
さて、最後の問題であった「アテネの学堂」。
これは、上記の説明を照らし合わせれば、賢明な諸君には分かってもらえるであろう。間違っているはずの遠近法が不自然に見えないということは、われわれが6世紀もの時間をかけて、「見方」を洗脳され続けてきた結果なのである。
オスカー・ワイルドの名言「自然は芸術を模倣する」とは、まさにこのことを言い、われわれは知らず知らずのうちに、芸術観のみならず、間違った遠近法で自然を見るように洗脳されてしまっていたのだ。
・・・ここまで読んできた諸君の中には、納得できず「詭弁だ」という人もいるかもしれない。
信じようと信じまいと自由であるが、事実には相違ない。
しかし、絵画は「事実」を描くものではなく、「真実」を描くものであろう。諸君にとっての真実が、タイルは歪んだものではなく、直線だけでできたものであるなら、やはり直線で描くべきで、その結果、他に矛盾が生じようと目を瞑るより仕方がないのである。
三次元に生きるわれわれが四次元の時空の歪みをうまく表現できないのと同じように、所詮、二次元の絵画で三次元の現実を表現するのは無理なのだ。
その意味で、ラファエルロは正しいのである。 (2004年春陽帖掲載)